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【読書感想記】「検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?」

センシティブなタイトルかもしれませんが「検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?」という本です。

自省録と共に購入しましたが、内容的に面白そうだったので現在読み進めている「ナポレオン」を中断してこちらを先に読むことにしました。

 

内容的には「ナチスも良いことをした」という言説に対しての批判・検討を行うものです。

是非はともかく、こういう言説を良く聞くことはありますがそれに対して論拠を挙げて反論していくという構造ではあるのですが多少は首を傾げてしまうような点もあります。

まず「良い」と判断する前提として、

・その政策がオリジナルであること

・良い目的のためであること

・肯定的な結果をもたらすものであること

を基準として考察しているようです。

これによって「前任者の政策を引き継いで成果を拡大させた」というのも「前任者の功績」だとする論理が用いられており、言うならば「前政権が計画した政策を良いものと評価したので、政権は変わりましたがこれは継続します」というのは良くないという扱いである。

初期の経済政策においてはシャハトが大部分を取り仕切っていたのでその部分は彼の功績である、という理屈なら頷きもしたものでしょう。

他にも「国民車構想はアメリカのフォードが先にやっているからナチスはそれを模倣しただけ」という論説もあります。

他者の行った政策や事柄を「良いもの」とナチスが高く評価し、ドイツバージョンとしてローカライズして実際に実施するのは果たして本当に「良くない」ものであるのでしょうか。デザインや車体の設計図まで盗用した、というならまだしも。

自国・自政権のオリジナルのものではないが、他国で行われた政策や成果物などの情報を素早く収集し、それを正しく評価・リスペクトして倣うことで同じ政策を行おうとする場面において、果たしてそこに良さが無いと見るのはいささか疑問が残る。

良い部分は真似る、悪い部分は見直す、これが当たり前に出て来ていることが「普通だから特別に良いものではない」という意見ならきっと得心していたはず。

健康政策においてもタバコの発がん性に警鐘を鳴らすナチスであったが、それもがん研究と禁煙運動が古くからドイツにあったという一言のみで論理飛躍し「タバコとがんを紐付けする啓蒙」すらオリジナルのものではないと断じてしまっている。

この辺りの基準や論拠に関しても少し違和感があった。

さてそんな違和感も「おわりに」を読みようやく理解した。

著者は自身のSNSでの発言によって炎上した経緯を踏まえてこの本を著したのだと分かる。どうやら「ナチスが良いことをした」と主張する方々との論争があったのだという。

それはともかく自らの考えと異なる意見を「中二病(原文まま)」と一蹴する態度はいかがなものであろうか。

嘲笑的(原文まま)なコメントに立腹する気持ちは分からないでもないが、このような排他的な言論は決して愉快なものではない。(そう思うのはきっと私だけではないはず)

正直なところこの「おわりに」を読んで本当に残念な気持ちになってしまった。

 

と少しばかり内容を批判しましたが、私自身はナチスそのものに関しては「純度100%の搾りたての悪だ」と思っている。もちろん評価できる点があるならば評価するべきとも思うし、批判するべき点は当然ながら批判するべきである。

しかしその上で「どういう原因があってあのような常軌を逸した悪事を行うことになったのか」を見出し、ナチスが行った政策が良い面であれ悪い面であれ(とは言え大抵の物事は善悪の両面を持っているのが常だろう)、当時の人々や社会また他の政策にどう作用したか、当時の人々がそれらをどのように評価したのかというように分析していくことが建設的な議論に繋がり得ると思っている。

少なくともこの本を手に取った時に私が思い浮かべていた理想はこれだった。この点においては大きくがっかりという気持ちである。

マキャベリズム的観点として、ナチスは「目的は手段を正当化する」からこそ手段を選んでいないのであって、その最終目標はドイツの勝利・ドイツによる経済的支配とするのであれば(ある種そのような野望を持った一部の)当時のドイツ人にとっては「良い」と判断されても仕方のない部分ではある。

もちろんそれは他国民であったり、ドイツで排除された人々からすればロクでもないことであったのは確かだ。この点には異論はない。

しかしWW1の敗北とヴェルサイユ条約によって自国を守る戦力すら保持できなかったドイツに対して1923年に賠償金支払いを名目にしてルール地方を占領したフランスの対応も、当時のドイツ国民に強いトラウマを与えただろうというのは容易に想像できる。

であるならばその後に登場した「ドイツを守る」と主張する人物に対して、必要に駆られて「ドイツを任せた」というのは良いことでも悪いことでもなく、ただ「そうする必要があった」という(ドイツ人にとっては)合理的判断でしかない。

ただしWW2はその任せた相手が手段を問う人物であるかどうかを考慮しなかったがために起きた不幸だと言えるのだが……

(端的に言うと某総統はスキピオ・アフリカヌスのような人物ではなかったということでもある)

 

ただし言説としてよく耳にする「ナチスは良いこともした」という意見に対しての反論としては非常に興味深く読み進めることが出来た。文体も説明も分かりやすいのは良い点であっただろう。

興味を引くタイトルと題材、という点では本当に期待を募らせるものであった。だからこそ残念な思いも強いのだが。

ただ他の同じような題材を扱う本でもナチスの悪性に関しては散々書かれているのでオリジナリティには欠けるかもしれない。

しかし例えばローマ史ではこのようなテーマに対してどういうアプローチがなされているのだろうか。

かの有名なネロ帝ですら功罪を理性的に区別し評価されるべき点は評価され、批判されるべき点は批判された上で改めて「暴君」と評されている。またそんな暴君ネロも哲学者セネカなどが補佐をしていた初期の政策や、64年のローマ大火で被災した住民を救済したり被害を受けたローマを再建する大々的な復興政策などは善政だと評価されているようではある。(その大火すらネロが引き起こしたという説はあるものの)

また弟ゲタの殺害やそれに関連してアレクサンドリアで2万人以上を虐殺したというカラカラ帝すら浴場建設においては評価もされている。これは父が計画した浴場の建設事業を引き継いだものであったようだが、こちらはカラカラの功績とされている。

それはさておき時代も国も人も違うとはいえローマ史の研究とナチス研究ではかなり異なる論評となっているようだ。

 

こうした単なる「良し悪し」の二元論のみに主軸を置くのではなく、ナチスや政策を緻密に分析し後世のための肥やしとしていくべきなのではないだろうか。

行動の良し悪しだけを物差しにするのであれば「何もしないより例え悪い結果となっても何かを行おうとするほうが良い」と思う人もきっといるはずであるし、「ロクでもないことをするぐらいなら何もしないほうが良い」と思う人もいるだろう。

しかしそういう意見も含め、ただ対立して相手を拒絶するのではなくあらゆる意見を互いに出しそれらを認め合い、多面的な議論によって自らの知性や感性を磨き、物事の善悪を嗅ぎ分け、他者を排除せず平和で寛容な社会を作ることに腐心するための議論のきっかけにはなるだろうか。

そういう意味合いとしてはオススメできる本です。