仲の支配地域も江東に及んだので初期からの馴染みの武将の配置を確認しておく。
建業は甥(従弟?)の袁胤を太守とした。建業と呉と会稽の3都市の防衛司令官として北の張遼(同盟相手でもあるが)への抑えを担当する。
寿春には(本来の大将軍の)張勲を太守として、さらに元盧江太守劉勲の2名を帝都防衛司令官として残す。
・202年
紀霊などの諸将を引き連れた袁術の本軍は江夏へ進み、202年中盤にようやく劉璋と戦争開始。
江陵はそのまま力攻めで陥落させる。
その後長沙での戦闘において仲軍は致命的な敗北を喫し、敵の捕虜となった陳蘭が登用に応じる。紀霊や周瑜も捕虜となっていたが運よく解放される。(紀霊は危険な場面では退却させるべきだったが)
ここにおいて袁術陛下は再びの飢餓作戦の実行を決断。
・203年~204年
準備を経て1月から劉璋領に対して再び兵1を送り込む飢餓作戦を執る。
敵軍は援軍も含めて14万強の大軍を動員するので兵糧はごりごりと減っていく。
時間を掛けて長沙・零陵・桂陽を落とすもついに曹操が南下を開始し永安と武陵は曹操軍によって陥落することとなった。
我々が行った飢餓作戦によって曹操のアシストをしてしまったのだ。
軍師周瑜が立てた天下二分の計も望みの薄い劉璋が永安・武陵を取り戻すことによってのみしか再開できない状態となってしまった。
しかも一度敗戦を喫しその立て直しのために財政難となっている仲帝国においてすぐに行動を取ることが出来ない局面でもあり、江東と荊州の多くを抑えても未だ前途多難であった。
・205年
205年7月の段階で各国領土は以下のようになっている。
益州を得る望みは潰えた。
新たな侵攻作戦としては長年同盟を組んできた呂布の後継者張遼を撃破して、曹操と共に従兄の袁紹と戦う。またも戦略的には曹操に与する可能性はあるものの未だ曹操と真っ向から戦うだけの力は仲にはないので仕方なし。
袁術陛下や紀霊の中央軍を帝都寿春に戻してから205年末まで準備しついに張遼と開戦。1度の兵糧攻めですぐ米が枯渇したので即本隊を送り込み下ヒ制圧。
その後ずっと汝南にて力を蓄え続けていた劉備(総兵力22万、米備蓄量20万)が曹操が治めるショウを攻撃し陥落させる。
曹操を攻撃してくれるのは願ったり叶ったりという状態ではあり、これで劉備・袁紹と手を組んで曹操を攻撃するという戦略的な選択肢も得られたが……
袁術陛下、すかさず劉備への使者派遣を決定。かつて同盟を組んでいたこともあったので敵対度も少なくあまりお金を掛けることなく今回の同盟は成立。
袁紹攻撃は一旦白紙とし、次なる攻撃目標は曹操。天下二分のために劉璋領に対する道を切り拓くこと。
・206年
6月まで兵力の準備を行い、7月から曹操に対する兵糧攻めを開始。
そして207年までには曹操から武陵・永安を奪取。
・207年
しかし一度は米0にしていくらかの部隊を士気0にして10万ちょっとの兵力を削り取ったとはいえ曹操も黙ってはいない。曹操軍はすぐに侵攻軍14万を編成して永安へと襲来する。
袁術陛下と大将軍に昇格していた紀霊と軍師周瑜は江州に在り、万が一永安が陥落すれば後方領地との連絡が絶たれてしまう。
事ここに至って袁術は軍を永安に向け、そして曹操軍を永安の山中にて各個撃破することに成功。甚大な被害を受けたものの曹操軍14万を撃破し、捕らえた敵将の多くを処断し永安の城門に曝したのであった。
曹操軍は軍の立て直しにそれなりの時間を要すると見られ、江州に戻った袁術は「軍の支度を整えよ」と命令を下し劉璋の待つ成都への侵攻を決意したのである。
8月、成都侵攻。こちらが成都を占領するとすさかず曹操は梓潼に侵攻し制圧。劉備に領土を掠め取られても曹操の関心は何故か南方に引き付けられているようだ。
・208年
支配都市数も20となった。全都市数は47なので中国全土の約半数を押さえるぐらいになったということでもある。
兵糧攻めばかりやっているからか、それとも超級だからか金米の保有数は少ないが中国の南半分を確保。
曹操は途中から劉備(中央付近の緑色勢力がそれ)に押され出し、陛下の従兄でもある袁紹は悪政を繰り返すも公孫サンや公孫度を滅ぼし河北で足場を固めている。
馬騰と張魯は良く分からないが、馬騰は一度だけ長安に攻め込んで撃退されたのを見た。
そして劉備と袁紹とは同盟を組んでいるので東部は安定化している。
そんな折、袁術の下を使者が訪れる。
献帝からの密使が現れて「曹操と42か月の同盟を締結」することを要請してきた。
3年6か月の同盟期間は流石に長すぎる。その間に曹操が支配域を広げてしまっては元も子もない。
何よりも「天子・帝」とは今や袁公路陛下のことである。
曹操の言いなりとなった帝は帝にあらずと、袁術はこれをきっぱりと断り使者を追い返すと改めて曹操との決戦を臣下たちに宣言する。