Commentaries on the Wargames

ゲームについてあれこれ書いていきます

【三國志8R姜維・英雄集結#4】麒麟児、河北・中原・江東の諸侯を呑み天下統一を果たす

普段は出し惜しみして2日~3日に1記事というペースで投稿していますが、今年もクリスマスと年末年始は毎日投稿する予定にしています。

 

・194年~

天水に立ってから約10年、天下統一は目前なれどまだ強敵は沢山残る。

しかし連合を打ち破って以降、敵側にはもはや姜維軍に対抗できる勢力はほぼ存在しない状態で後方から幾らでも兵力を動員できる自軍からすると「弱い者いじめ」のような状態となってしまって面白くはない。

 

許昌とショウを治める荀彧を攻撃するべく宛から出陣、ショウまで攻め込んで荀彧を滅ぼすと次の相手は汝南の袁紹。しかし宛からも新野からも援軍を呼べるという地理的に恵まれた状態でもあり袁紹も8万の大軍を擁していたが難無く撃破。

交趾と益州の一部をもって新軍団を任せた鍾会が会稽を攻めるも失敗、CPUに任せた侵攻は兵力だけが物を言うのだろうか。ともかく交趾の兵力の減少は痛い。

汝南から寿春を攻撃。もはや敵軍は兵力だけはそれなりに抱えているものの姜維軍に対して有効に戦うことは出来ないほどの武将差・兵力差が出ている。

交趾の鍾会が会稽を再び攻撃し陥落させる。

その後、呉と秣陵の勢力にそれぞれ勧告の使者を送り降伏させる。そして江陵を姜維軍本隊が攻め落とし、これによって揚州は姜維軍の旗の下に統一された。残るは中原の一部の地域と河北の諸勢力である。

 

長安から并州攻略を目指すフセンの動きは鈍く、一方江陵から北上する姜維軍は下ヒを攻略。

ほとんどの勢力は支配都市1つだけという状態なのでもしかするともう戦う必要すらないのではないかと思い立ち、まずは外交的交渉を試みる。

これが上手くまとまり呂布軍が降伏。

呂布と同じように都市1つしか支配していない君主を片っ端から外交で屈服させていく。

そうして最後に残ったのは都市2つを持つ劉備軍。これに対しては降伏が通らないようだったので先に降伏した諸侯に攻撃命令を出して侵攻させる。兵力はいくらでも後方から供出出来るのでもはや敗北も痛くはない。

そしてあっけなく劉備軍も滅亡し天下統一。

 

中国全土を押さえた姜維軍の次なる目標は西方。

戦乱で荒れ果てた中国を制し、次はまた西域(中央アジア)との戦端を開くのであった。

 

・感想

最後は結局勧告連打で諸勢力を降し、CPU任せにして攻め込むという「いつものダレちゃったパターン」でのクリアになった。

対連合の教訓は「城門作戦で対処」か「対処出来なければ一旦撤退し、輸送と移動で戦力集中してから倍返し」で何とかなると思う。プレイヤーが居なくてCPU任せになる都市は輸送を禁止して守りでも固めておく。都市に命令を出せない場合は勝手なことをしないように祈るしかないかも。

この時点ではまだアプデが来ていないので最高難易度が上級なのだが、アプデで超級が追加されるようなので追加され次第また別の勢力で超級に挑戦しようと思っている。

 

三國志8REMAKEもこの時点で100時間以上は遊んだので結構な満足感があります。(やることも一緒なので……)

次回はFE風花雪月なしルナの残っている学級でのプレイとなる予定です。

【三國志8R姜維・英雄集結#3】反姜維連合結成により心が折れ、しかし一晩経って再び奮い立つ

・192年

支配都市を順調に増やし順調な局面にこそ危機は訪れるものである。

姜維連合の結成である。

友好的な関係を気付いていた司馬懿すら敵に回る大連合であり、18の勢力が加盟することになったようだ。

河北の端のほうに加盟しなかった勢力が残るが、現時点で姜維軍と同盟を結ぶ金旋以外のほとんどの勢力は敵に回ったと見て良い。

そして4月の評定では3都市同時侵攻作戦が始まる。普通にやってもCPUに任せても守り切れず。

僻地は一般武将ばかりを残して有力な武将をほとんど残していなかったこともあり防衛すら厳しい局面になってしまった。

ロードを繰り返してどうにかハ陽・盧江・長安が防衛できないものかと何度もやり直してみたが敵軍本拠の破壊も効果薄で、大軍が弱い者いじめのように攻め立ててくることに何の対処も出来ずにボコボコにされるのみだった。

元々から外交にあまり力を入れていなかったのもあって敵連合からの領土防衛は難しそうなのと20万の大軍はともかく、正規軍6万や8万と言ったレベルの軍が常に攻め寄せて来てしまうので速攻で正規軍のみ撃破するのも難しい。

事ここに至って敵軍による連合戦に対しての防衛も厳しいものになって心も折れてしまったので巴蜀制覇でとっととクリアして終わらせてしまった……

 

・感想……?

ということで反姜維連合に心が折れてクリアしてから一晩過ぎ、翌日にもなってくると「やっぱり曹操の前に尻尾撒いて逃げるのは嫌だ」と思い立つ。

そしてオートセーブから192年3月の時点まで巻き戻し、再びハ陽防衛戦の直前からやり直す。

 

・192年3月リベンジ

とにかく城とマップ端の狭い部分を利用して防衛。連合軍の大軍が押し寄せるも接近される前に敵正規軍を全滅させることは出来た。しかしこれは3連戦の初戦でしかない。

続いて盧江防衛戦。こちらも城とマップ端を利用。

敵がよほど強くなければ同じ戦法で守り切れるかもしれないという希望を受けてこの戦いを「城門作戦」と呼称。

どちらの戦いも捕縛して登用を拒んだ敵武将は処断することにした。今までは全て解放していたが、敵連合の結成という危機の中でもはや容赦すら出来ないほどに余裕がなくなってしまった。

しかし同じ戦法も長安における対司馬懿軍に対しては不発。というより司馬懿の奇才の効果が強すぎて対抗しきれない。

仕方ないので天水に全面退却。残念ながら軍団長となっていたフセンを解任し、姜維馬超含む一軍メンバーもまた天水に移動させて司馬懿軍との決着を付けることに。かつては同盟を組み、互いに背を守り合った司馬懿軍と何故このようなことに……

 

7月の評定では会稽の王朗が交趾を攻撃。しかしこれも城門作戦で撃退。ちなみに配下太守がいて細かい命令を出せなくなる前線の都市は念のため輸送を禁止しておく。

天水から長安を攻撃。壮絶な戦いの果てに長安司馬懿から奪還。

次の評定人員の呼び寄せのために姜維軍は停止、一方で荊州に残る敵の金旋を攻めて滅亡させる。

193年1月の評定で弘農を攻める。関所に籠る司馬懿軍との戦いには非常に難儀させられたがそれでも圧倒的兵力差を前にして関所は陥落。姜維の車懸と馬超の車懸の2連打によって残りの部隊は即座に壊滅し、裏切りの司馬懿はついに城門に首を晒されるという末路を辿った。

1月、4月の評定での波状攻撃以降は隣接都市の兵力が減衰しているためか姜維軍の支配地域への侵攻作戦は行われず。

そして前線の都市には大兵力を常に張り付けられるようにしておいたのもある。結局は準備不足の状態の時に奇襲攻撃を受けて防衛し辛いところを連合軍に突かれただけだ。準備しさえすればそう怖いものではなかった。

 

・193年4月以降~

洛陽を攻撃。ここを落とせば曹操軍は目前である。

ここもまた堅牢な関所があり何進軍が立てこもり防衛している。しかし姜維馬超のエース2名を筆頭とする姜維軍の前に成す術無く陥落。

続いて洛陽から陳留を攻める。この時点で確認された曹操軍の総兵力は約8万。濮陽から済南の勢力を幾度と攻めて撃退されていることで兵力は風前の灯火の状態となっていた。

陳留から濮陽もまた攻撃し陥落せしめる。これによって曹操軍は滅亡。曹操はついに姜維の前に膝を屈し降った。

残り期限3か月となっていた反姜維連合は劉虞が盟主を引き継ぐことになったが次回評定で解散。

これによって危機は一時去ったが周辺の諸侯たちとの外交関係は最悪の状態なので一刻も早い大陸の統一が必要となった。そうでなければ第2、第3の反姜維連合が結成されてしまうかもしれない。

とは言えこの勝利によって中原を姜維軍支配都市が貫いた形となった。姜維は一旦長安に引き返し、ここから宛を通りまずは王朗の守る会稽まで攻めて江東を完全制覇するための軍を発する。

その前準備として新野の張繍に勧告の使者を送ると、張繍はこれに応じて降伏。宛攻めの援軍として動員し袁術の守る宛は陥落。袁術は登用を拒否したので処断され宛に晒された。

【キャリコ~陽だまりネコとパッチワーク~#1】元は猫が出るボードゲームらしい

本日(12月19日にこの記事を書いている)可愛い猫が丸まっているイラストに惹かれてスイッチ版を購入。

タイムウォーカーのヘル攻略が中々進まない中での癒しを求めていた時に猫を見つけて衝動買いしてしまった。

元々はボドゲらしいのだが当然ながら田舎で見かけたことはない。

パズルのカテゴリーに入れるかどうか迷ったが元がボドゲということでそちらに従う形にすることにした。

猫が徘徊する中で色や柄を上手く組み合わせてキルトを縫って、特定の組み合わせなどによる最終的なポイントを競うというものらしいが、ストーリーモードもあってそちらでは特定の条件を決められたタイルで完成させたりするゲーム性となっている。

 

ゲーム開始直後からエディットでゲーム内に登場させる猫を作れるので早速エルを作ってからストーリーモードを始めた。

(あるとは知らずに)チュートリアルを受けないままストーリーを少し進めたところで「もしやボードゲーム版でルールを知っている人が遊ぶゲームなのでは」と思ったが、直後ちゃんと探したらストーリーモードとは別のところにちゃんとチュートリアルが存在していた。それでも分からないことがまだ少し残っているが……

ちなみにほんわかなのんびりとしたストーリーになっていると思いきや、猫をやたらと信奉する国があって隣国と戦争の真っ最中でキルト屋として色んな人のためにキルトを縫うという世界観だった。

軍旗も軍帽の徽章も全部猫。

よく見たら建物にも猫のマークがある。

町の人たちも基本は猫=幸運を呼ぶ存在として崇拝している、という感じ。

ストーリーは始めたばかりの頃はまだ難易度は低いが進めていくとどんどん難易度が高くなり、よりパズルを楽しめるようになる。難しすぎる、という場合でも3段階のヒント(というより途中まで解いてもらう機能)もあるので完全に詰まったという状態にはなり辛いかもしれない。

ちなみにキルト作り中は上記のように猫が自由に闊歩したりする。

得点に関与する表示を猫が隠してしまうこともあるがタイルを持ったカーソルを近付けると逃げるし、Yボタンを押すことによって画面端で眠っていて貰う事も出来る。

エルもゲーム内で作成したので上記画像のようにプレイ中には生地の上に乗って自由に行動したりもする。ZLボタンを押して触れ合えるようにするとお腹を見せたりしてくつろいでいたりと本物同様可愛げがある。

このようにエディットで作れる猫は尻尾の太さ、耳の垂れ・反り具合と割と細かく設定できる。鼻の色と耳の中の地肌の色を別々に設定できないところは少し不満点だが、どちらかと言えば鼻の色に合わせておくと違和感なく作れるかもしれない。

猫を飼っている方は自身の飼っている猫をエディットで作って登場させるとより没入できるのではないだろうか。

ちなみにエディットしなくとも猫はランダムで勝手に登場する。エディットした猫なら帽子や衣装も身に着けさせることができるのが一応の遊び要素と言える。

ゲーム性としては高ポイントを獲得するために色と柄をそれぞれ特定のパターンで配置しなければならないというところが非常に頭を使う。

例えば上の画像で言うところの「AAA-BBB」なら周囲のヘックスに同色か同柄のどちらかで3×2パターンずつ配置して7点、色も柄も両方がこのパターンで揃っていれば13点となるのだが当然使えるタイルは自由に選べるわけではないので工夫が必要になる、という具合でこれが面白い。

始めて数時間と経っていないものの既に面白いので実際のボドゲ版も欲しくなる。

 

一応オンライン対戦も出来る。

対戦と言ってもゲーム的には陰湿な妨害要素などはほぼ無い。

基本は黙々と自分の得点を高めていく、という感じだが残念なことにクイックマッチにはほぼ人がいない。3人対戦で他プレイヤーを3分ずつ待ち、人が来ずにCPUとの対戦になるばかりだった。ゴールデンタイムでこんな状態だった。激強海外勢と当たるのではないかと戦々恐々としている部分もあったにせよ、結果はオフラインと変わらずそこまで強くないCPUとの対戦に終わったのは残念である。

一応ソロでプレイし得点をオンラインで競う、というのはあった。これを見る限りはプレイしている人がいないわけではないのだろうが……単にクイックマッチでプレイしている人が皆無だったか時間が合わなかったものだと思っておこう。

 

そして数時間、特にストーリーモードをやり込んで一応のエンディング(と言っても簡素なものだったが)を見た。その後もストーリー中に出てきた各キャラからの依頼(と言う体での対戦)がやり込み要素的な感じで残っている。

こうしてストーリーだけなら1日も経たずにクリアは出来た。今後もDLC等で追加される要素は出て来るかもしれないが。

そしてストーリーモードこそサクッと遊べる感じだったが、それとは別にやりこみモード的なものもあるのでじっくり本腰を入れても遊べる。

1人プレイで特定の条件(以下の画像だと50得点+3匹からネコトークン貰う)をこなしてゲームをクリアするという感じでこれも結構難しい。

とにかく猫が可愛いので「上達したい」というモチベに貢献してくれる良ゲーだった。

ちなみにこのゲームをプレイしている際、(携帯モードで寝転がってやっていない時に)テレビ画面の前でエルがテーブルに座って画面上の猫を眺めていた。という意味では現実でもゲーム上でも2重で猫に邪魔されたりする。でももちろんのこと猫の可愛さで許してしまう。そんなゲームである。

キャリコを極めた頃に#2を書くかどうかは猫のみぞ知る。

【三國志8R姜維・英雄集結#2】麒麟児、剣閣・綿竹を越えて成都を得る

・187年続き~

涼州から南下を目指す姜維は漢中を制圧し、そして眼前には鍾会と剣閣が立ちふさがっているという局面の続き。

兵力再編の時すら惜しい。

単独での攻略は難しいと思われるので江州のトウ艾と同盟を締結。そのまますぐに梓潼への侵攻を決断する。

そして軍営にて軍議に入る涼州軍。

複雑に入り組んだ険峻な山道に、別の世界線では10万の魏軍を食い止めた関所が待ち構えている。

姜維軍42000、鍾会軍51000。ここに姜維軍の増援としてトウ艾軍4万、鍾会軍の側には劉焉軍の増援が到来する予定となっていた。

梓潼の戦いは20日以上費やす大激戦となり両軍ともに夥しいほどの損害を出しながらも姜維トウ艾連合軍は勝利した。

これによって鍾会姜維軍へ降伏。野心溢れる貴公子が膝を屈めたことでついに成都への道が開かれた。

188年1月の評定で成都侵攻が決定され、再びトウ艾の増援と共に侵攻。梓潼の戦いにおいて被害を出していたはずだが、まだ劉焉には4万の大軍が残されていた。また劉焉と同盟を結んでいた南蛮王孟獲も援軍を出したことで再びの大激戦となった。

綿竹に孟獲たちが入り姜維トウ艾連合軍を阻もうとするもこれを突破し、成都を制圧することに成功。劉焉もまた涼州軍の傘下に降った。

 

しかし安堵も束の間、今度は同盟相手のトウ艾が永安の羅憲から侵攻を受けているので増援が欲しいと要請してきた。

トウ艾を助けるべく3万の援軍を成都から発し羅憲の軍を悉く打ち破る。これによってトウ艾の危機は救われたのであった。

同盟相手を救った涼州軍は南中の永昌を攻撃。

成都攻防戦において孟獲軍の被害は甚大だったらしく既に青色吐息状態で、増援を含めても3万に足らずという軍部隊しか集められていなかった。

成都から発した4万の涼州軍は永昌を陥落させると、姜維はついに「公」の官爵を自称することとなった。州牧は西平と武威を落とした時に名乗っていたので、ついに涼公になったかと思いきや実際の官爵は「南蛮公」だった……

 

南蛮公となった姜維は続いて雲南建寧と続けて攻略。孟獲を滅亡へ追いやった。

ここでフセンを新たな都督(軍団長)として任命し長安・天水・西平・武威を任せる。宛の攻略命令を出してはおいたが、司馬懿との同盟を駆使して長安以東を守ってくれれば良し。

これで姜維の軍は2軍に分かれた。姜維の直属軍である巴蜀軍とフセンの指揮する新涼州軍である。

宛を南方からも同時に突くには未だ至らないので、まずは交趾の士ショウを攻撃。隣接する2勢力と同盟を組んで不動の構えを見せていた士ショウ軍だったが姜維率いる巴蜀軍の勢いを受け止められず滅亡。

 

・189年~

荊南から攻め上がっていく。まずは桂陽の趙範を攻撃し問題なくこれを撃破。これによって荊州の入口をこじ開けることが出来た。

零陵の劉度も撃破。

武陵・長沙を治める韓玄は、その東側を治める黄祖(4都市も支配する勢力であり、姜維勢の次に巨大である)と同盟を結んでおり苦戦は必至。

攻撃の準備を整えている内に襄陽の劉表が柳隠の守る上庸へ侵攻。自軍4万に対して、劉表軍はなんと6万の大軍で押し寄せる。

上庸は現時点でさして重要でもないので撤退の命令を出そうかとも思ったが、しかし柳隠は本来の世界線で黄金囲を守り続けた武人であり、彼の武勇に期待することにして防衛戦へ臨むことに。

とにかく都市の周りに固まって、都市からの補助攻撃を含めて敵を削っていく。策略を2度受けたり、炎に巻き込まれたり、多勢の敵による攻撃で多くの兵士を失ったものの上庸は死守された。

一方でついに韓玄軍への攻撃準備を終えた姜維は武陵に狙いを定めた。まずは武陵を落とし荊北を無視して長沙に韓玄を追い詰めて、柴桑とその周辺を押さえる黄祖との決戦を優先する戦略を採る。

侵攻した武陵では黄忠を筆頭に3人の武将しかおらず、4万の巴蜀軍に対して2万で抵抗したものの壊滅。ここで黄忠配下として戦っていた蒋エンが戦後に加入。とは言え現時点での姜維軍は末期蜀のような人手不足状態ではないので、かつては上司だった蒋エンも武陵での留守番役としてしか起用できないのはどこか口惜しい気持ちがある。

韓玄軍最後の拠点である長沙を攻略し、そのまま黄祖軍の守る柴桑を攻撃する。

何故か順調に領土拡大を果たす黄祖軍の出鼻を挫き、このまま揚州を支配して大敵となる前に片を付けておきたい。

 

柴桑・ハ陽・盧江と攻略していく内に支配都市が20都市となった。

「漢の娘」の演義伝を進めて昭華姫と結婚。

そして盧江から江夏を攻めて黄祖滅亡。

江陵の金旋を攻めたいが同盟を組んでしまっており、また同盟期間が1年残っていたのでここは成都・梓潼から江州のトウ艾を攻めることに。

成都の守備軍団から劉焉たちを進発させ江州は陥落。トウ艾姜維軍に屈し降伏。三国末期の英雄姜維鍾会トウ艾が一堂に会する形となった。

【三國志8R姜維・英雄集結#1】麒麟児、君主として天水で立ち涼州に臨む

仮想シナリオ「英雄集結」で戦っていきます。

 

・主人公は姜維(君主)

・難易度は上級(11月初旬の時間軸なのでアプデがまだ来ていない)

・戦死なし、外交初期状態なし、相性は仮想

・史実武将編集等は今のところ一切いじっていない(いじる予定もないが……)

それではスタート。

 

・184年~

本来の世界線では「蜀漢のワンオペバイトリーダー」と化していた姜維も英雄集結では君主として君臨。配下はかつて姜維とともに蜀に降伏した面々や、姜維時代の北伐で共に戦った武将たちが多い。なお馬遵はいる。劉禅や郤正はいない。

武将としては頼りない配下が多いが近辺の在野には王双や王異など優秀な武将が多いので最初の評定でこの2人は登用しておく。

余裕があれば馬騰韓遂(出来れば馬騰)に計略で扇動をかけておく。

 

そして戦略的に現時点では天水は常に敵からの侵攻を受ける可能性のある都市なので、迅速に敵を攻撃し安全な都市を確保する必要がある。北には敵勢力としては馬騰韓遂が割拠しているが、武威や西平を確保出来れば天水で守れる安全地帯になるので序盤の重要度は高い。

序盤は金も兵糧もカツカツなので2回目の評定は。暇なので水鏡先生からお小遣いを貰って配下の忠誠上げをしておく。

なお出来ればここでも馬騰韓遂に対して扇動を掛けておきたいが、後に徴兵するのでお金は確保しておくこと。また扇動しても効果がないような場合は諦める。

3回目の評定までに「山賊の懐柔」がまで達成出来るように民心を上げておき兵士5000を増やす。あとは徴兵してすぐ戦争。こういうことが出来るのは訓練度がないという仕様のおかげである。

 

(実際ここまでの肯定を試行錯誤して何度もやり直すことになった)

この時点で馬騰韓遂の都市では住民反乱が起きていなければ兵士は12000ちょっと。7月に住民不安が回復して兵収入+2000ちょっとで14000強になるところが両軍とも兵数18000になっていた。(徴兵したのかもしれない)

姜維軍の兵力はこのターンでの徴兵も含めて約26000。なので2万強の軍勢でもって韓遂の治める西平を攻撃。

フセンが一騎討ちで負けるという事故も起きたが何とか勝利。

馬騰軍には扇動をかけて住民反乱を発生させているのでこの間に兵力回復を図りたい。

185年1月に馬騰の守る武威へ侵攻。本体2万と1万の増援、そして事前に馬騰の部隊に埋伏をかけておいて攻略。

4月、7月は兵力増強。馬超との友好を上げて義兄弟の契りを交わす。

涼州を押さえたので次は空白地武都を狙うか長安董卓と戦うか。

しかし武都は戦略的な価値は低く、董卓は宛の袁術と結んで万全の構えを見せる。

漢中の張魯と結んで長安を挟撃するつもりで同盟を持ちかけようとすると「おそらく失敗する」と姜維の助言が。

どうしようかと足踏みしていると張魯が空白地の武都を攻める。その後背で孟達が漢中に侵攻とところてん式に漢中の勢力が入れ替わったので、次は孟達に同盟を打診。

今度は同盟に成功し、これによって涼州軍5万と孟達からの援軍3万を得て長安を攻撃。董卓を滅亡させる。これで西北は制覇したが今回の最終目的は天下統一である。

長安攻略後、王双に別動隊を任せて天水に移動させ張魯の武都を攻撃しこれを陥落させる。ここでも孟達から援軍を呼べたので有効活用しておく。

 

・187年~

孟達と結んだ1年の同盟が解除されるや否や長安と武都から漢中へ進攻。関所で守る孟達軍の抵抗を排して漢中を制するも、未だ孟達の本隊は上庸にあり完全にトドメを刺せてはいない。

漢中から向き合う敵には上庸の孟達と梓潼の鍾会がある。孟達は襄陽の劉表と結び、鍾会成都の劉焉と結ぶ。同盟相手も含めどちらも大軍を有する難敵だが先の1戦で戦力が大きく減衰している孟達との決戦が優先されるか。ちなみに劉表に同盟の打診が出来るか見てみたが「失敗に終わるだろう」という一言だった。

戦力は問題なく用意できるので即侵攻。

劉表から5万~6万の増援が来るのでとにかく素早く進攻し、櫓や都市からの攻撃も物ともせずにとにかく孟達軍に対し猛攻を掛け、劉表軍の増援が後背を突く前に孟達軍を全滅させ上庸を制圧。

孟達とその配下の多くは涼州軍に降伏する運びとなった。その中の1人に法正が含まれていたことでかつての長き戦いを思い出して感慨深い思いをしている。

しかしこれに黙っていないのは劉表であり、既に同盟相手は滅亡したので争う理由もないはずだが大軍が上庸を制圧したことで脅威を感じ取ったのかすぐさま劉表軍による上庸への侵攻を認めた。

上庸の本隊31000と漢中からの増援17000で劉表軍54000に対抗。

涼州軍は姜維龐徳などの統率・武力の高い人材が揃っていることもあり難無く劉表軍を全滅させ撃退。

そして姜維は上庸から漢中に戻り梓潼を狙う。

果たして姜維鍾会軍5万が守る四川防衛の要衝・剣閣を突破することが出来るのか。

【三國志V袁術198年#3】袁家の因縁の決戦

・208年続きから

献帝の密勅を断ったからといって名声が少し低下したのみでそれ以上のペナルティは無かった。(もはやその程度のところまで漢室の権勢は落ちている、という表現かもしれないが)

ともかく、次なる目標はまずは梓潼・上庸の確保である。そしてこの2都市から漢中へ向けて軍を発し西の守りを固めることが第1目標。

その後は新野から北上し宛と洛陽を通り、曹操が大軍を率いて守る都・許昌を陥落させることが第2目標である。許昌攻めの際には劉備軍の力も借りることが出来るかもしれないし、先に劉備たちが許昌を確保してしまう可能性もある。

 

・209年

8月から曹操軍に対する兵糧攻めを開始し行動4回目で侵攻。こんなことを平然とやるのでひと月の内に90日以上戦争していることになる。

梓潼を陥落させると火事場泥棒的に馬騰が南下。馬騰は既に長安を陥落させていたので漢中に侵攻し、兵糧不足の曹操軍は手も足も出ない。

馬騰のおかげで漢中の領有は成らなかったが、曹操を追い出せたのでこれはこれで良し。

そう思いつつ上庸攻略のために袁術御一行を移動させるや否や馬騰軍が梓潼に闖入。仲の戦力は不安だったので交戦せずに前線を成都に下げる。

すぐさま袁術たちは成都に戻り対応を協議し、曹操軍への攻撃を保留して馬騰軍を兵糧攻めすることに。

米が0になると即座に梓潼に乗り込み出来る限りの増援を呼び寄せて撃破する。

これによって多くの捕虜と共に梓潼を奪還したのであった。

馬騰及びその同盟者である張魯にさらに一撃を加えて曹操領攻略のための時間を稼ぐ必要があるのでこのまま馬騰の守る漢中を落とす予定とする。

 

・210年

6月までに漢中、そして張魯ただ1人で守る下弁を攻略。これにより張魯勢は滅亡。

しかし7月に盧江太守の張昭が謀反。

「知将の謀反」と言えば初代太閤立志伝謀反編を思い起こさせるが、周辺都市の兵力で対処。外交担当として重宝していた張昭の死は仲帝国にとって計り知れないほど大きいものであることは間違いない。

常に曹操馬騰から計略を受ける形になってしまっているのでこれからはもっとこの手の事が頻発するかもしれない。

 

・211年

またもや曹操兵糧攻め。そして新野侵攻。

新野陥落とほぼ同時に馬騰が宛を急襲。再び馬騰が侵攻ルートを塞ぐ暴挙に出る。

そして劉備許昌を攻撃するも大損害を出して失敗。

袁術陛下は先に馬騰との決戦に臨むことを決心し下弁から天水へ侵攻。馬騰軍を二分。馬騰軍が曹操軍をターゲットにしている間に背後から馬騰軍を押し込んで滅亡させたいところである。しかし馬騰曹操領の弘農まで陥落させ、もはや曹操の命運も風前の灯火といった状態。

こちらも進軍を急ぎつつ馬騰が押さえる長安を攻めるに当たって兵糧攻めを敢行。

しかしまずは宛を攻めてから陥落。曹操が弘農を取り返すと、仲軍による長安攻略によって馬騰勢は滅亡。

 

・212年

兵力の立て直しを計りつつ長安から弘農を攻撃し制圧。

方円の陣で城に籠る曹操の堅いこと。

劉備曹操許昌を攻撃して陥落せしめる。これによって曹操軍の残る都市は洛陽ただ1つになった。

ここに来て民忠のケアが間に合わず自領で反乱が頻発するようになってきたがもはやどうしようもないので無視して曹操との決戦を急ぐ。

 

・213年

1月に洛陽に侵攻し制圧。今まで散々仲帝国を苦しめてきた大敵である曹操滅亡。ちなみに曹操は仲の家臣の1人となった。(そういえば馬騰も配下になっていた)

次は劉備との決戦と行きたかったが先に袁紹との同盟期限が切れる。

とは言え兵力増強が最優先なのでしばらくはまた忍耐の日々に戻る。民忠上げも忘れないようにしたいが、時すでに遅しという感もある。

12月には劉備との同盟終了。袁紹と再び手を組む。

 

・214年

1月、劉備に対して兵糧攻め

2月、一度でも米0にしたことで劉備の怒りを買ったのか劉備軍が帝都寿春に突如襲来。16万の大軍を発した劉備に恐怖を感じつつも防戦。しかし劉備は単身特攻を掛け、5日目の援軍に囲まれて虜囚の身となった。処断。劉備の後継は関羽

帝都防衛戦に勝利した仲軍は洛陽から許昌を攻撃しこれを陥落。関羽を捕虜としたため処断。後継は郭嘉

4月には劉備関羽郭嘉と続いた元劉備勢も滅亡。

そして残すは従兄袁紹。人望も優秀な家臣団も袁術が持たざる物を全てを持っていた憎き袁紹との決戦を残すのみだが、この世界線袁紹は河北で悪政を続け、いや袁術も支配域では反乱塗れなのでそう違いはないがとにかく中国全土が地獄絵図なのは違いない。

袁紹との同盟締結期間が終了したら後は生きるか死ぬかの戦いである。

 

・215年

6月に同盟期限終了。

7月、袁紹兵糧攻め開始。袁紹は名声100で金もほぼ底を突いた状態なのでもはや何も怖くはない。商人のいる都市も袁紹領ではギョウのみ。

なのでまずはギョウを攻略。

その後晋陽攻略時に袁紹を捕縛。親族の情によって滅亡までは解放することに。しかし袁紹は玉璽を保有していた。

しかし既に皇帝となった今や不要なものではあるが能力上昇効果はあるので有難く貰っておこう。

そして順調に袁紹領を侵食し最後は襄平に袁紹を追いやった。

袁紹の最期。

そして大陸統一。

天下統一時点の袁術の名声は139。

最終的には毎季節ごとに2~3か所の都市が反乱を起こすような有様でそれらを全て武力で鎮圧していた。

「天下統一後の袁術政権はもはや長くは持たず、圧政と反乱の中で袁術王朝は脆くも消え去ったのであった」というエンドだった。

 

・感想

超級はやっぱり計略祭りが本当に面倒だった。

敵の強さ的にも兵力が多くなりやすいのでどうしてもゲームシステムを利用した兵糧攻めを何度も行うことになった。

このシナリオは他君主がばんばん悪政をするで有名ではあったが(仮想なので多少は緩和されているかもしれないが)結局は私の操作する袁術も最後は悪政をしていた。

それでも略奪と徴兵をしなかったところだけは自らを褒めてあげたい。

 

ちなみに今回のプレイで天下統一したのは10月23日の午後11時手前。

三國志8リメイクまでの繋ぎでプレイしていたので攻略が間に合って良かった。

日付が変わり次第三國志8を楽しむ予定である。

(という感じで既に三國志8リメイクを楽しんだ記事が先に投稿されてしまっているが……)

【三國志V袁術198年#2】南下する曹操、そして陛下と周瑜による天下二分作戦

仲の支配地域も江東に及んだので初期からの馴染みの武将の配置を確認しておく。

建業は甥(従弟?)の袁胤を太守とした。建業と呉と会稽の3都市の防衛司令官として北の張遼(同盟相手でもあるが)への抑えを担当する。

寿春には(本来の大将軍の)張勲を太守として、さらに元盧江太守劉勲の2名を帝都防衛司令官として残す。

 

・202年

紀霊などの諸将を引き連れた袁術の本軍は江夏へ進み、202年中盤にようやく劉璋と戦争開始。

江陵はそのまま力攻めで陥落させる。

その後長沙での戦闘において仲軍は致命的な敗北を喫し、敵の捕虜となった陳蘭が登用に応じる。紀霊や周瑜も捕虜となっていたが運よく解放される。(紀霊は危険な場面では退却させるべきだったが)

ここにおいて袁術陛下は再びの飢餓作戦の実行を決断。

 

・203年~204年

準備を経て1月から劉璋領に対して再び兵1を送り込む飢餓作戦を執る。

敵軍は援軍も含めて14万強の大軍を動員するので兵糧はごりごりと減っていく。

時間を掛けて長沙・零陵・桂陽を落とすもついに曹操が南下を開始し永安と武陵は曹操軍によって陥落することとなった。

我々が行った飢餓作戦によって曹操のアシストをしてしまったのだ。

軍師周瑜が立てた天下二分の計も望みの薄い劉璋が永安・武陵を取り戻すことによってのみしか再開できない状態となってしまった。

しかも一度敗戦を喫しその立て直しのために財政難となっている仲帝国においてすぐに行動を取ることが出来ない局面でもあり、江東と荊州の多くを抑えても未だ前途多難であった。

 

・205年

205年7月の段階で各国領土は以下のようになっている。

益州を得る望みは潰えた。

新たな侵攻作戦としては長年同盟を組んできた呂布の後継者張遼を撃破して、曹操と共に従兄の袁紹と戦う。またも戦略的には曹操に与する可能性はあるものの未だ曹操と真っ向から戦うだけの力は仲にはないので仕方なし。

袁術陛下や紀霊の中央軍を帝都寿春に戻してから205年末まで準備しついに張遼と開戦。1度の兵糧攻めですぐ米が枯渇したので即本隊を送り込み下ヒ制圧。

その後ずっと汝南にて力を蓄え続けていた劉備(総兵力22万、米備蓄量20万)が曹操が治めるショウを攻撃し陥落させる。

曹操を攻撃してくれるのは願ったり叶ったりという状態ではあり、これで劉備袁紹と手を組んで曹操を攻撃するという戦略的な選択肢も得られたが……

劉備軍はさらに曹操領徐州を攻撃し陥落。

袁術陛下、すかさず劉備への使者派遣を決定。かつて同盟を組んでいたこともあったので敵対度も少なくあまりお金を掛けることなく今回の同盟は成立。

袁紹攻撃は一旦白紙とし、次なる攻撃目標は曹操。天下二分のために劉璋領に対する道を切り拓くこと。

 

・206年

6月まで兵力の準備を行い、7月から曹操に対する兵糧攻めを開始。

そして207年までには曹操から武陵・永安を奪取。

 

・207年

江州も曹操から奪い取りついに劉璋領と接続。

しかし一度は米0にしていくらかの部隊を士気0にして10万ちょっとの兵力を削り取ったとはいえ曹操も黙ってはいない。曹操軍はすぐに侵攻軍14万を編成して永安へと襲来する。

袁術陛下と大将軍に昇格していた紀霊と軍師周瑜は江州に在り、万が一永安が陥落すれば後方領地との連絡が絶たれてしまう。

事ここに至って袁術は軍を永安に向け、そして曹操軍を永安の山中にて各個撃破することに成功。甚大な被害を受けたものの曹操軍14万を撃破し、捕らえた敵将の多くを処断し永安の城門に曝したのであった。

曹操軍は軍の立て直しにそれなりの時間を要すると見られ、江州に戻った袁術は「軍の支度を整えよ」と命令を下し劉璋の待つ成都への侵攻を決意したのである。

7月から成都兵糧攻め

8月、成都侵攻。こちらが成都を占領するとすさかず曹操は梓潼に侵攻し制圧。劉備に領土を掠め取られても曹操の関心は何故か南方に引き付けられているようだ。

 

・208年

6月の時点で建寧雲南を攻略し一応の戦略的目標は達した。

支配都市数も20となった。全都市数は47なので中国全土の約半数を押さえるぐらいになったということでもある。

兵糧攻めばかりやっているからか、それとも超級だからか金米の保有数は少ないが中国の南半分を確保。

曹操は途中から劉備(中央付近の緑色勢力がそれ)に押され出し、陛下の従兄でもある袁紹は悪政を繰り返すも公孫サン公孫度を滅ぼし河北で足場を固めている。

馬騰張魯は良く分からないが、馬騰は一度だけ長安に攻め込んで撃退されたのを見た。

そして劉備袁紹とは同盟を組んでいるので東部は安定化している。

そんな折、袁術の下を使者が訪れる。

献帝からの密使が現れて「曹操と42か月の同盟を締結」することを要請してきた。
3年6か月の同盟期間は流石に長すぎる。その間に曹操が支配域を広げてしまっては元も子もない。

何よりも「天子・帝」とは今や袁公路陛下のことである。

曹操の言いなりとなった帝は帝にあらずと、袁術はこれをきっぱりと断り使者を追い返すと改めて曹操との決戦を臣下たちに宣言する。

 

まずは漢中を落とし西の守りを強固とし、新野から宛・洛陽を通るルートを切り拓き、憎き曹操献帝が治める許昌を目指すのだ!